New Single「ゆりかご」リリース記念ロングインタビュー

取材/文=村上孝之

心に染みるポップス・ロックを核にしたエモーショナルな音楽性やコンポーザー/プレイヤーとしての秀でたスキルを備えた彼らは、上質な大人のロックを聴かせる存在として多くのリスナーから熱い支持を得ている。そんなShammonが最新シングル「ゆりかご」を完成させた。’90Sミュージックが持つ普遍的な魅力を打ち出した同作は非常に魅力的だし、Shammonのサポートを務めている本田毅(g/PERSONZ)と実弟の本田聡(b)がレコーディングに参加したことも注目といえる。マイペースな活動を行っていた数年間を経て、再び攻めのモードに転じた感のあるShammonの2名をキャッチして、「ゆりかご」に込めた思いを軸に、様々なことを語ってもらった。

――お二人はどんなふうに知り合って、Shammonを結成されたのでしょう?

大山:俺は1998年にISSAY(vo)君と広瀬“JIMMY”さとし(g)さん、HAL(b)さん、それに俺の4人で新しいバンドをやろうといって、プレ・ライブを下北沢でやったことがあったんだ。そのライブを、有待が観にきていたんだよね?

有待:そう。僕はJIMMYさんが見たくていったんです。そうしたら、“あっ、ZIGGYの大山さんがいる!”と思って(笑)。ライブが終わった後、打ち上げにお邪魔させてもらって、一番怖そうじゃない大山さんの隣に座って、挨拶させてもらいました。「ZIGGY、聴いていました。僕も歌っているんです」といって、割箸の紙に自分の電話番号を書いて渡したんです。そのときはそれっきりだったけど、1年以上後に大山さんから電話がかかってきたんです。

大山:俺がLaputaというバンドのプロデュースをしていたときに、マニュピレーターとキーボードでヤギハシカンペーさんという人が来ていたんだ。カンペーさんと一緒に仕事をしていたら彼がすごく俺のことを気に入ってくれて、「大山君を、僕がプロデュースしたい。メーカーもすぐに決められるし、事務所もいいところがあるから」という話になった。「でも、俺歌えないっスよ」と言ったら「いや、歌は別に入れますから」と言われて、“なんだよ”っていう(笑)。俺は歌う気満々だったから(笑)。その話が出たときに、何年か前にイケメンのボーカリストに連絡先をもらったような気がするなと思って。それで、財布を探したら、あったんだ。

――割箸の紙がですか?

大山:そう(笑)。財布の中に入っていて、試しに電話してみましょうかといって電話したら、偶然有待がすぐそばで飲んでいたんだ。三軒茶屋だったよね?

有待:そう。三軒茶屋で飲んでいたら、電話がかかってきた。

大山:「今から来れる?」と聞いたら「30分くらいでいきます」といって来てくれて、そこからは“トントントーン!”と話が進んだ。有待の歌をちゃんと聴いたことはなかったけど、WILD STYLEはカメリアダイアモンドのCM曲をやっていたから、ということはそこそこ歌えるだろうし、大丈夫だろうと思ったんだ。そういう流れで、1998年にShammon(当時はSham-on)を結成したんだ。

――お二人の縁を感じます。最初からバンドではなく、ボーカルとドラムのユニットをやろうということで話は進んだのでしょうか?

大山:うん。俺はその当時30代の後半で、今となっては笑っちゃうけど、結構焦っていたんだ。これからギターを見つける、ベースを見つけるみたいなことをしていたら、アッという間に40才になっちゃうよと思って。40代のロッカーなんてダサいよと思っていたんだ、当時は。だから、ユニットでいいじゃんと思った。実際ユニットも増えてきていたし、俺と有待は2人とも曲も詩も書けるし、キーボードはカンペーさんがいるし、ギターとベースはサポートでいいじゃんと。ユニットということに抵抗感は全くなかったね。

有待:僕もバンドということに、こだわりはなかった。ミーハーだったからZIGGYの大山さんと一緒に音楽をやれることが嬉しかったし、ドラムとボーカルのユニットというのは当時いなくて、珍しくていいんじゃないかなというのもあったし。だから、ユニットでいいというか、ユニットがいいんじゃないかなと思いました。

――たしかに、ドラムとボーカルのユニットというのは個性といえますね。Shammonを結成した時点で、目指す音楽性も見えていたのでしょうか?

大山:音楽性は見えていなかった。俺は有待に、どういう音楽が好きなのか聞いたんだよ。そうしたら、ウィンガーが好きだといったから、聞かなかったことにした(笑)。俺的に、ウィンガーとかはなかったから。俺の中には湿り気は絶対に出していきたいというのがあって、カラッとしたLAメタルみたいな路線はダメだなと思っていたんだ。ぶっちゃけね、俺の中では演歌ロックでいいなと思っていた。ポップス演歌ロック。水商売の女の子が仕事が終わって家に帰ってきたときにラジオとかからShammonの曲が流れてきて、“ああ、なんかこの曲染みるな……”みたいなものをやりたかったんだよね。

有待:僕も、そういう路線はいいんじゃないかと思っていたんです。だから、音楽性について深く話し合わなくても自然と固まっていきました。

――演歌ロックや歌謡ロックは難しい部分があるかと思いますが、Shammonは洗練感があって、すごくいい形で提示されていますね。では、ここまでの話を踏まえて、8月24日にリリースされるニュー・シングル「ゆりかご」について話しましょう。まず、同作はShammonにとって22年ぶりのシングルです。

有待:このタイミングでシングルを出すことにしたのは2年くらい前に、自分はずっと歌ってきたけど、そろそろキャリアも終わりになるなと思ったんです。ここ数年のShammonはマイペースで活動してきていたけど、最後になりそうだから、もう1回きちんとやりたいですという話を大山さんにしました。

大山:それまでは2人だけのShammon(Z)という名義で年に何回かアコースティック・ライブをしていたんだけど、有待がバンド・スタイルでライブをやりたいと言ってきたんだ

有待:ミュージシャンとして当たり前のことを、ちゃんとしたいなと思ったんです。だから、バンド形態でライブをやりたかったし、メンバーもずっとサポートをしてもらっている本田毅(PERSONZ)さんと弟の(本田)聡さんにお願いしたいと言いました。それで、じゃあやろうということになったけど、その矢先にコロナが起こってしまったんです。2020年の5月に初回のライブを決めていたけど、コロナが起こったから悩んで悩んで、結局飛ばすことにした。そうしたら、大山さんに「ヘタに有待がやる気を出したから、世の中がこういうことになった」と言われました(笑)。

大山:ハハハッ! 有待はダミアンだから(笑)。彼がやる気を出すと、ろくなことがないんだ(笑)。

有待:コロナも僕のせいになった(笑)。コロナが起こってしまったけどライブをしたくて、配信ライブを重ねていったんですよ。そういう中で、アイテムを作ろうかという話になって、そのときに「俺、曲がある」と言ったんです。それで、“ラララ~”で歌ったデモを、大山さんに渡した。それが、今回のシングルに入っている「パステルの石畳」という曲です。

大山:俺は音源を作る気はなかったけど、ミュージシャンの性として今までリリースをしたアルバム2枚分の曲だけで何度かライブをすると飽きてくるんだよね(笑)。

有待:“レパートリー、少なっ!”っていう(笑)。

大山:そうそう(笑)。だから、新譜を作るのは賛成だった。音源を作るなら俺も1曲あるなということをふと思い出して、シングルを作ることにしたんだ。

有待:そうやって2曲が揃って、僕の曲を大山さんがリ・アレンジしてくれて、ライブと同じメンバーでレコーディングしました。

――音源にも本田さんご兄弟が参加されているんですね。彼らとは、どんなふうに知り合ったのでしょう?

大山:元々は俺だね。俺は19才で東京に出てきて、その頃はいつも新宿LOFTに溜まって遊んでいて、そこでタケちゃんと知り合った。19才の頃から仲よくしていて、Shammonを始めたときもギターを弾いてよとお願いしたんだ。タケちゃんはShammonを気に入ってくれているし、彼はギター・アレンジに関しても、もう天才というか、本当に信頼できる。だから、いつもギターレスのデモを渡して「煮るなり、焼くなり、好きにして」と言っていて、そうすると完璧なものが返ってくる。今回もそういうやり方で、2曲ともギター・パートは彼が考えてくれました。

――肩書はサポートですが、ほぼメンバーのような存在といえますね。では、リード曲の「ゆりかご」からいきますが、この曲は作詞/作曲ともに大山さんが手がけたエモーショナルなミディアム・チューンです。

大山:この曲を作ったのは、実はかなり前なんだ。原形を作ったのは2002年だから。いろんな意味で記憶に残っている曲だったから、いつか世に出したいなとずっと思っていて、今回仕上げることができて良かったと思う。「ゆりかご」は、俺の亡き前妻(戸川京子さん)に捧げたレクイエムなんだよね。そこは俺の中でも葛藤があって、それを公表すると賛否両論あるだろうなと思った。でも、生前、前妻といろんな話をしていた中で、彼女は自分がみんなから忘れられてしまうのが1番怖いということを、ずっと言っていたんだ。それもあって、今回形にして公表するのはいいタイミングかなと思った。今年は亡くなって20年という節目の年だから。こういう事をすると死人商売とか言うヤツが必ずいるじゃん。でも、世間がなにを言ったとしても、そういうことよりも彼女の“自分は人の記憶に残っていたい”という思いを、俺は元旦那として優先させてもらった。「ゆりかご」は、そういう曲なんだ。

有待:「ゆりかご」はデモテープの段階からいい曲だったので、これをやりましょうと即答しました。

大山:ただね、当初は「パステルの石畳」がリードで、「ゆりかご」がカップリングの予定だったんだ。だけど、途中で有待が「ゆりかご」がリードのほうがいいと思うと言いだした。

有待:曲調的には「パステルの石畳」のほうがリードっぽいし、僕もそういう意識で書いたんですよ。でも、制作を進めていく中で、歌詞の世界観も相まって「ゆりかご」のほうが歌っていて“グッ”とくるなと思って。それで、リードとカップリングを入れ替えようという提案をしました。

大山:有待が歌っていて“グッ”とくるんですよね…みたいなことを言うのを初めて聞いたんだ。それで、歌物だから、歌う人間が思い入れがあるほうがいいんじゃないかなということで、入れ替えることにした。

――「ゆりかご」も「パステルの石畳」も上質で、両A面シングルのような作品になっています。では、「ゆりかご」のレコーディングはいかがでしたか?

有待:Shammonではデビューしたときから大山さんが歌のディレクションをしていて、今回もそれは変わらなかったんです。20何年ぶりにレコーディングするからちょっと緊張もしていたし、もしかしたら喧々諤々になる可能性もあるなと思っていた。ただ、昔の僕は不真面目だったけど、今回は真面目に準備をしていったんです。ちゃんと練習したし、何パターンか歌いまわしも考えていった。だから、大山さんの理想どおりにはいかなかったかもしれないけど、違うパターンを提示できるようになったから、大山さんも納得してくれる歌を歌えたんじゃないかなと思います。

――喧々諤々には……。

有待:ならなかった。朝までかかると思っていたんですけどね。昔は5時間も、6時間も歌っていたから。

大山:懐かしい(笑)。今回は2テイクくらいで、ほぼOKだった。だから、すごく早かったね。ドラムも2回しか叩かなかったし。

――早いですね! 大山さんの歌心に溢れたドラムはすごく心地いいですし、有待さんのボーカルは個性があって、響く歌でいながらクドくないというところが魅力的です。

有待:それは、自分ではわからない。自分の歌の癖みたいなものはやっぱりあって、それは消していないからアッサリした歌ではないと思う。ただ、クドくならないようにということは、すごく気をつけているんです。しゃくらないと正しいピッチに音をあてられなかったりするのは嫌だから、そこは練習しました。昔の僕はしゃくらないと音をあてられなかったんですよ。でも、英語の歌をいっぱいコピーするようになって、真っすぐ音をあてる技術を習得できて、それを今回活かせたというのはありますね。

――レコーディングをする機会などがなくても、日々シンガーとして鍛錬されていることがわかります。では、続いてカップリングの「パステルの石畳」にいきましょう。

大山:「パステルの石畳」は完全に’90年代へのオマージュというか、俺の中での’90年代のポップス・ロックはこういうもので、それを形にしたくてサポート・キーボードをやってもらっているTacos Naomi君と思いきり遊ばせてもらった。そうしたら、有待が作ったウィンガーみたいなデモから、グンと良くなったよね(笑)。

有待:ウィンガーをバカにしたような発言が多いな(笑)。僕が作った曲は毎回大山さんにリ・アレンジしてもらっていて、自分の曲をリ・アレンジされることには全く抵抗がないというか、逆に感謝しています。僕が作るデモのコードは“C→Am→G→F”みたいな感じだから(笑)。大山さんはコードを変えるし、場合によってはメロディーも変えるんですよ。大山さんと僕は作る曲のテイストが全然違うけど、大山さんの色が入るから並べて聴くとShammonになっているんです。

――“Shammonになる”というのは、有待さんの歌も大きいと思います。「パステルの石畳」の歌詞は、想い合っていながら上手くいかない恋が描かれていますね。

大山:キャッチコピーにもあるように、Shammonは“実らぬ恋と満たされぬ愛を歌い続けて25年”というユニットなので(笑)。「パステルの石畳」は、そのど真ん中に位置する歌詞だよね。

――たしかに。「パステルの石畳」の歌詞はかわいらしさがあったり、ロマンチックだったりして年齢を感じさせないことが印象的です。

大山:でしょう? 俺は少年の心を忘れていないから(笑)。“オジサン、恋してるんじゃねぇ?”みたいな(笑)。

有待:大山さんの歌詞の世界観は昔からロマンチックなんですよ。Shammonは、どの曲もそう。僕はそういう歌詞は書けないから、もう全部大山さんに任せています。そういう意味では、大山さんが書いた詩を表現するのが難しい場合もある。大山さんが理想としているものとは違う解釈になっている歌もある気はしますね。

大山:でも、総てが自分の思いどおりにならないと嫌だとしたら、ユニットやバンドをやる意味がないじゃん。俺の中には自分がイメージしていたものとはまた違うものが出てくる楽しさを味わいたいという気持ちもあるんだ。だから、有待に自分のイメージだけを押しつける気はないし、今回彼は「ここは、こういうふうに歌いたいです」みたいなサジェスチョンもくれたんだ。それで、「うん、いいんじゃね」みたいな。昔はそういうことはなかったから、今回のレコーディングは今まで以上に楽しかった。

――いいパターンですね。それに、「パステルの石畳」のボーカルは色気と爽やかさという相反する要素が同居していて、表現力の高さを感じました。

有待:本当ですか? じゃあ、そこは大文字でお願いします(笑)。

大山:ハハハッ! いや、有待もオジサンだけど、少年の心を忘れていないということだと思うよ(笑)。

――お二人の人となりを始めとして、いろいろなことが絶妙に重なり合ってShammonならではの魅力が生まれていることがわかります。もうひとつ、大山さんは「ゆりかご」は後ノリのどっしりしたビートを叩かれていますが、「パステルの石畳」はジャスト・ノリのタイトなリズムを刻まれていますね。

大山:そう。この曲は完璧に裏方に徹しようというか、ビート・マシンになろうと思ったんだ。

――楽曲によってタイム感をコントロールできるんですね。

大山:そこはキャリア、キャリア(笑)。俺は’60年代に生まれ、’70年代を経て、’80年代の風を受け、’90年代に花開き、その後もいろいろあって…という人生なので(笑)。プロデューサー業もやっていて、そこでいろいろ得られたというのもあるし。そういうところを活かして、楽曲によっていろんな年代のいいとこ取りをしようと思っているんだ。「パステルの石畳」は’00年代以降のタイトな4つ打ちを意識した。俺は、そういうビートも最高だと思っているから。

――さすがです。良い楽曲と卓越した演奏が相まって、「ゆりかご」は注目といえるシングルに仕上がりましたね。話は少し変わりますが、ここに来て’90年代の音楽が再評価されています。’90Sを作った世代のお二人は、それにどんなことを感じますか?

大山:’90Sの良さはいっぱいあるけど、まずはわかりやすくて、そこが魅力だと思う。メロディーがわかりやすいし、特にサビは1回聴いたら覚えてしまって、なおかつずっと頭の中で鳴り続けるような曲が多かったよね。あと、キラキラした部分を強調するのが主流で、あのキラキラ感がすごくいい。

有待:僕は’95年にWILD STYLEでデビューしたから完全に’90S世代で、当時はいろんな音を詰め込んだ時代という印象がある。音が派手じゃないとダメだというのがあったんですよね。多分僕らの世代はその音像に耳が慣れているから、サウンドがシンプル過ぎる曲だと落ち着かないんですよ。’90Sはゴージャスで、煌びやかで、でも柔らかみがある。そこが、いいなと思いますね。

大山:’90Sはオシャレだったよね。歌を主役に据えた音楽というのも良いと思うし。さっきも話したように、俺は’60~’70年代の音楽がリアルタイムで鳴っている時代に育って、’80年代から今に至るまで音楽に携わってきた。そのうえで言うけど、’90Sは最強だと思う。それは決して独りよがりな印象ではなくて、邦楽ミュージック・シーンの歴史に刻まれている名曲が1番多く生まれたのは’90年代だということが証明しているよね。

――たしかに、’90Sは時代を超える魅力を持った楽曲が多いです。ですので、’90Sフレイバーが香るShammonが再び精力的に動き始めたことは本当に楽しみです。「ゆりかご」のリリースに加えて、ライブも決まっているんですよね?

有待:8月19日に渋谷clubasiaでレコ発ライブをやります。「ゆりかご」の収録曲も加わった最新のShammonを披露するので、ぜひ会場に足を運んでほしいですね。当日は「ゆりかご」の先行発売も予定しています。それに、12月4日にも下北沢MOSAiCでライブをやります。

大山:今年はShammon(Z)名義のアコースティック・ライブも積極的にやろうと思っているし、もうガンガンいくよ。それこそ20代前半の頃は60才手前で音楽をやっているなんて、全く考えられなかった。30代後半に40才になってしまうと思って焦っていたのに、気づけばこの歳でしょう? もうね、怖いものなんか無い(笑)。同世代のお客さんも音楽やライブから卒業してしまったりせずに来てくれるし、コロナも落ち着いてきたしね。だから、ここからさらに気合いを入れてやっていこうと思っている。

有待:さっきも話したけど、なんのためにShammonをやるのかというと、自分のキャリアをちゃんと全うして死んでいきたいから。つまり、当たり前のことをやりたかっただけなんですよ。僕は’95年にデビューして、当時は歌を歌って、ライブをして、レコーディングして、取材を受けて…というのは当たり前の仕事だった。その後いろいろ事情があったり、時代が変わったりして音楽以外の仕事もしないといけなくなったけど、自分の職業は歌手だから、それを最後に全うしたい。そういう意識でShammonに取り組んでいこうと思っています。